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明日のことは書けないブログ

反社会的な作品は発表しない方が良いのか?

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先日、ある美術館で作品を展示させていただきました。

そちらは別名義で発表しております。

この作品が批判を受けたので、その所感を書きます。

 

どんな批判だったか。

「暴力的で反社会的な作品だ」ということ。

 

この作品は一種のリトマス試験紙なんですが、そういう批判があまりにも多く来たので、それに関して所感を述べることにします。*1

*1:このエントリは会期中にお返事したことの解説です。会期中は「作者が言うにはそれもまた然りだそうです」としかお返事していません。また、私の代わりに感想を受け付けた人にもそう言うようにお願いしていました。

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ミスから始まる2017年の目標7つ

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

あなたは「時間」をどのように表現しますか?

 

両手からこぼれ落ちる砂のようなもの?

ある晴れた日の雲のようなもの?

いつの間にか背の縮んだ親のようなもの?

 

私の2016年という時間は、「あ」です。

あっという間の「あ」。

気がついたら終わってました。

 

何かの準備期間のようでいて、何の用意もありません。

なぜそうなったかを踏まえつつ、今年の目標を書いていきましょう。

 

  1. 自立した生活をする

    現在、親から仕送りをもらいながら、人生をイージーモードでプレイしているのですが、そろそろノーマルモードでプレイしようと思います。

    上京したからには自分の力だけで生活できることを証明したいですが、東京って住むだけでも大変ですね。郊外が精一杯です。何年も郊外にいるので早く都心に住んでみたいです。


  2. 英会話を身につける

    夏にNYへ赴いたのですが、自分の語学力が現地で通用しませんでした。

    それ以来、英会話を週に一、二回かしているのですが、秋の海外マンガフェスタでもまったく通用しませんでした。

    一緒に参加した方に通訳をしてもらわなかったら、何も頒布できずじまいでしたね。自分で作ったゲームのルールの説明をできる程度には、英会話を身に付けたいです。


  3. 文学賞を受賞する

    10年前の目標です。いい加減に受賞しないと生涯制作数が減ります。何としてでもプロ作家の肩書きを得て、じっくり執筆できる環境を手に入れたいです。小説に割り当てられる一日の時間が少ないのが不満です。

    小説を書くことが私の人生で最も楽しくて有意義なことだと感じます。これをできないのは私の人生にとって損失です。目標が達成されていないので今までの10年間はすべてが損失になりますから、これ以上の損失は出せません。

    また、今の私は問題解決能力と計画性がないので、その部分を克服しなければ受賞することは難しいでしょうし、他の目標も達成できないでしょう。とにかくトライ・アンド・エラーです。あと読書。


  4. 恋をする

    年末にドラマの『逃げるは恥だが役に立つ』を見たんですが、これ本当におもしろかったです。私も恋がしたいです。エリクソンの心理社会的発達理論において20代の命題は「愛することができるか」ですから、ぜひとも達成したい。

    というのは半分冗談で、中学生の時みたいな恋、久々にしたいですね。つい先日、地元連中のライングループがあけおめで盛り上がっていたのですが、中学時代に付き合っていた元カノがチャットに招待されました。

    無知だった私は彼女にひどい仕打ちをしたので、確実に恨まれていることでしょう。もう二度とあのラインには顔を出せません。嫌な時のことを思い出させるのも悪いので、出来る限り地元連中とは疎遠でいようと思います。

    東京で新しい恋を見つけたいです。

    今度は相手を傷つけずに好きでいたいと考えています。

     

     

  5. 筋肉を鍛える

    過去に靭帯を切ったり背骨を潰したりしたので激しい運動は禁物なのですが、年末に立ち仕事を続けていたらとうとう足がやられました。今も治ってないです。歩けないほどではないですが、痛いので歩きたくありません。

    このままですと太りますからね。筋トレです。筋トレするとストレスが消えますし、夜もぐっすり眠れます。代謝が上がって、お肌がキレイになります。良いことだらけなんです。筋肉って素敵。


  6. NOと言える人間になる

    頼まれると断れないんです。最初は「話を聞くだけ」と思っているのですが、聞いているうちに、「乗れ、このビッグウェーブに!」という風に思えてきます。結果的に私は余計な仕事を抱え込み、自分の小説を書く時間を失いました。

    波は何度かあって、とりあえず来た波すべてに乗っかったんですね。乗ってみたら意外とそうでもなかったりしました。仕事内容がどれだけ魅力的でも、見るべきところは仕事相手です。一つ学びました。


  7. 科学実験酒場に行く

    大学時代の先輩がよく話題にするので行ってみたいんですよね。その名の通り科学実験をする酒場ということなんですが、期待しているのは酒場の常連に文化人が多いということです。

    店舗が武蔵小山から西五反田に移転したそうですが、これでまた西五反田に文化人の集まる施設が増えました。たぶん徒歩5分のところにゲンロンカフェがあるんですが、ここもまた文化人の集まる場所です。私は文化人のフリしてますが。

    科学実験酒場に行くのは2月頃って予定しているので、目標というよりは単純に予定みたいな感じです。ゲンロンカフェも科学実験酒場もそうですが、こうしたところへ赴くからには知り合いを一人でも増やしたいですね。

    去年は知り合いが10人ほどしか増えなかったので、今年は20人以上を目標に知り合いを増やしたいです。知人・友人の存在は東京をサバイヴする上で非常に重要ですから、大事にしていこうと思います。

 

 

というところで、2017年の目標7つでした。

結局、2016年は何もしてなかったんですね。ですが、自分の程度を知れたのは大きな収穫でした。

大問題の課題遂行能力を下方修正しながらさらなるスキルアップを図ります。

 

ああ、それとブログの更新は適度に行っていこうと思います。

また夢を語り合おうじゃないか

 最後にこのブログを更新したのは2年以上前のことのようだね。

 ブログの更新をしなくなったのは友達ができたからだ。

 たくさんの話したいことを話せるようになった。

 

 この友達とは本当に仲がいい。

 一生の友達というものが、まだ一生を語れるほど生きていない私にとっては理解できないとしても、ずいぶんと仲良くしているような気がする。

 たいていのことは友達に話してしまうので、ブログにわざわざ書くまでもない。

 

 それに、他愛ない会話だ。

 将来の夢を語り合った、というと陳腐に聞こえるかもしれないが、私たちはほとんど先のことばかり話していた。

 あんまり過去のことは話したくないだけだったのかもしれない。

 

『大人になったら、友達と気軽に話せる時間が減るぞ』と高校の先生が言ってたことを思い出した。

 半分は本当だと思うけど、半分は先生の勘違いなんじゃないかな。

 話そうと思えばいつだって話せるけど、気軽に話せることはだいたい一人で片付いてるんだ。

 

 クラスメイトが結婚しただとか転職しただとか、そういうニュースは地元の旧友とだったら話すよね。

 でも、今の友達は大学に入ってから出来たので、やっぱり話せることは過去のことではないんだ。

 

 私たちは未だにくすぶっている。

 

 あきらめの悪い二人だ。

 友達は長野、私は宮城から上京してきた。

 ちょっと勢い余って、今は神奈川に住んでるけれど。

 

「いや、これはいつか東京で住むための地ならしなんだよ」

 

 決まって私はそう言う。

 結局、二人とも自分の目標を果たせないまま何年も神奈川で過ごした。

 季節が変わる度、都会に憧れてボンヤリ漂ってる自分が情けなかった。

 

 転機は今年の春に訪れた。

 まだ肌寒い2月か3月の中途半端な時期に、友達は長野へ帰ると言い出した。

 そんな突然どうしたんだ、と驚いたら、逆に驚かれた。

 

 たしかに前に何度か実家に帰るという話は聞いていたけれど、私は話半分で聞いていたから、まさか本当に帰るとは考えてなかったんだ。

 友達の事情を知った親が、実家に帰るよう指示したらしい。

 

 親からすれば、友達は心配して仕方のない状態だった。

 大学には行かないし、部屋はゴミだらけだし、ヒゲも剃ってない。

 そんな有り様で半年が経っていた。

 

 友達が夏ごろから精神的にやられていたのを私は知っていた。

 柄にもなく就職活動なんてするからだ。

 就職活動というのは自分のやってきたことを売り出すこと。

 

 前しか見ないで突っ走ってきた奴が、急に後ろを振り向いたら転ぶだろ。

 履歴書はスッカスカの空欄だらけだし、これから埋める予定もない。

 だったらやりたいことを満足いくまでやるべきだろう。

 

 引っ越し当日、私は友達の家に手伝いに行った。

 きっと悔しそうにしてるはずだから、励ますつもりだった。

 だってお前は負けて帰るわけじゃないんだから。

 

 しかし、久々に会った友達は、どこか安堵しているように見えた。

 この時の私は苛立ちもせず、呆れもせず、ただただ居心地の悪さだけを感じて、ほとんど引きつったような愛想笑いでお茶を濁していた。

 それと引っ越しの手伝いは、手伝えるようなことはすでに終わっており、余っていた調味料や洗剤などの消耗品を引き取るくらいしかやることがなかった。

 

 あれは彼にとって挫折だったのか?

 私には分からない。

 挫折なんて味わいたくないし、俺はまだ満足できてないぞ。

 

 いつかは駆け出し者でいられなくなる時が来る。 

 それがいつになるかはわからない。

 

 同じように、夢を追うことを満足いくまでやるべきだ、ということについても私は明確な回答を持っているわけじゃない。

 少なくとも、立ち止まってるよりは良いと感じるだけ。

 

 でもこんなこと、なんて話せばいいのか分からないから、こうしてブログに書いてるんだ。

 ああ、高校の先生が言っていた『大人になったら、友達と気軽に話せる時間が減るぞ』って言葉が染み入るように分かる。

 

 同じ時間を過ごしていないと、どんどん相手が分からなくなっていく。

 いや、今まで分かり合えていたような気がするだけか。

 おそらく、一緒にいると感覚が麻痺してくるんだ。

 

 私とお前は違う、って感覚が鈍る。

 でもそれは悪いことなんかじゃないよね。

 私とお前は違うから話せるんだ。

 

 また夢を語り合おうじゃないか。

 

Netflix火花お題「夢と挫折」

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飼っていた猫が死んだ

今から7年前、福はやってきた。

福というのは猫の名前だ。福が家にやってきたのはちょうど私が14歳の誕生日の時だった。別に誕生日プレゼントとしてではない。捨てられていた猫をかわいそうだと思って母が拾ってきたのだ。家には同じように拾われた猫がすでにいた。チーという。当時は15歳で、私よりも年上だった。チーは私が高校生の時に姿を消した。猫は死ぬところ見せずに死ぬというが、おそらくそれだろう。しかしながら福という猫は具合が悪そうな顔で私の顔を見てくるので、これは病院に連れて行った方が良いねと母に提案した。福を連れて行く時、なんとなくこれが最期であろうと感じていたが、その直感は当たってしまい、3月18日19時30分頃、福が死んだと動物病院から連絡があった。そうか、死んだのか。私の感想はそれだけだった。動物病院で福を引き取り、まだ温かいことを確認した。診療代や葬儀のことなどいろいろ聞いたが、家に帰って来てからはいつもどおり夕食を食べ、テレビを見て、風呂に入って寝た。私の生活の隣で福はよくいた場所にいる。普段から寝転んでいた椅子のそばで、相も変わらず寝ているのだ。ただ、テレビを消した時の家の静けさが増している。寝る前に静かに眠る福の喉を撫でてやると深い毛の奥から死が伝わってきた。固くて冷たい死が伝わってきた。

今、家には猫が一匹もいない。考えてみると、私は猫のいない暮らしをしたことがなかった。家にいる間は猫が同居していることを頭の片隅に置きながら生活している。例えば、風呂場の戸はいつでも水が飲めるように少しだけ開けておくだとか、風呂場に通じるリビングのドアは寒いけど少しだけ開けておくだとか、こっそり小便をされないように客間の引き戸には棒を立て掛けておくだとか、寝室のドアはベッドに小便されないように閉めておくだとか、爪を研がれてしまわないように発泡スチロールは見えないところに隠しておくだとか、ホームセンターに餌を買いに行くだとか、病気の猫用の餌を動物病院に買いに行くだとか、人間の食べるものはちゃんと閉まっておくかゴミに出すかするだとか、無糖のヨーグルトが出た時は皿に少しだけ残しておくだとか、どこかから拾ってきたネズミやモグラの死体を外に捨てに行くだとか、いつも横になる椅子の上にはクッションを引いてやるだとか、くしゃみのしぶきでクッションが汚れないようにクッションカバーを新しくするだとか、台所を歩く時に足元に尻尾がないか確認するだとか、野良猫が家の中にまで入ってくるので追い払うだとか、具合が悪そうなので動物病院に連れて行く、だとか。

こうした行動は猫がいなければしなくて良い。しかし、その行動を無意識のうちに取ってしまう。そうすると無常感のようなものを覚え、鼻をかまなければならなくなる。する必要のないことと分かっているが、今でも客間の戸には棒が掛けられているし、風呂場の戸は少しだけ開けてある。もしも死後の世界があるとするならば、死後の世界での身の振り方について戸惑っている頃であろうか。自分の居場所を見つけてまたそこで眠るのであろうか。

津波で街が死んでも、祖父が死んでも、飼っていた猫が死んでも、私は生きていく。すべては巡り廻る生と死の法則。だから人は愛し、別れを悲しむ。悲しみは感情の層の一番下で私を支える。悲しさが風化することに私たちは恐怖や嫌悪を覚えるだろう。でもそれで良い。生きていくとはたぶんそういうことなのだ。ひとつひとつ、今日も明日も生きていくことが大事。そのように私は思う。

今、私が社会で気にしている5つのこと

 社会のことで気になるもののリストです。

 何の社会かというのは特に考えていません。分類もしません。

 今の自分がどんなことを気にしているのかとふと思いまして、それでまとめようとしているんですね。

 

1.ゆとり世代の次があきらめ世代なこと

 あきらめ世代ではなくさとり世代なんて言うそうですが、今の若い人たちの無力感というのを大学で感じます。今の子供は夢を追わないだとか言われますね。昔はもっと元気があっただとか。若い人からの目線で言えば、現実的にならざるを得ない環境だからということもあるでしょう。その環境とは、景気の停滞とそれが可視化しやすいツール(インターネット、携帯電話の普及)が整っていることがあると思います。現実が見えすぎるのも良くないんでしょうか。

 

2.ゆとり世代の作った多様性の地盤と分化するあきらめ世代

 ゆとり世代は勉強する時間が減ったのでその時間を趣味に充てていました。非生産的な趣味でもいいんです。需要さえあれば供給しようと思う人がどんどん現れますからね。スキマ産業なんて言葉もありました。今まで枯れていた大地にゆとり世代たちがやってきたことによって豊かな大地になった場所もありました。それがその大地に元から住んでいた人にとって好ましいことだったかどうかは分かりませんが、そういうことがあったのであきらめ世代はいつでもそうした土地に移住できる環境にいると思います。リアル社会もネット社会も食い物にされた土地しかないと感じる人もいるかもしれませんね。

 

3.安倍政権が崩れるのも時間の問題だと思っていること

 個人的にはこのままずっと安倍政権でいいです。国のトップがアンパンマンよろしく首をすげ替える様は見るに絶えません。でも、自分にどうしても不利になるような政策を始めたら反対します。しかし、安倍政権はいい感じに国民のやる気を取り戻していると思います。でも今の人達はその状況に満足に飽きつつあります。もっとやる気を出したくなるんでしょうね。しかしそんなにうまく行かない。東京オリンピックが決まってるし、目に見えない不安みたいなものはとりあえず忘れられると思います。

 

4.原発問題は話すこともタブー化されていないか

 いわゆるデリケートな話だからできるだけ避けよう事案。私の周りの空気感としては、原発を今すぐやめるってのは無理だから少しずつでも原発への依存を少なくしていこうよ、って感じだと思っています。私としてもそれでいいと思っていますよ。ただ、原発の話はみんなにとって共通のあんまり話したくない話題なんでしょうね。嫌な話題はしたくないものです。どうしてもしなきゃいけない話題ではないと思いますが、時が来たら話し合う必要があるでしょう。

 

5.男女が悪い意味で平等になってきていると思うこと

 女性専用車両が出てきたあたりからの疑問点。現状、男尊女卑の社会になっていると思う。しかし、女性はいつでも男性を社会から追放できる魔法の言葉として「この人、痴漢です」ってのを持っています。あるいは、草食系男子だとかのブーム作り。百合・BLなどの同性愛の文化が強まってきたこと。すべて女性のせいと思いませんが、きっかけとして女性専用車両あたりからこの風潮は強まりだしたと感じています。男性の立場を落とすことが男女平等である、という風潮ですね。実際はどうなのか知りません。勝手に男性が立場を落としているだけなのかもしれません。

 

 他にこれというものを思いつかない。

 これからは気になることがあったらブログに書き留めて行こうと思います。

 

 二十歳を越えてから物覚えが悪くなって仕方ないのです。

「小説を読む」とは何か

 小説とは物語を伝えるための装置でしかないと思っていたが、最近は物語の方の解釈が変わってきた。小説は未だに装置だ。それ以上でもそれ以下でもない。問題は物語だ。物語とは“散文による創作文学のうち、自照文学を除くものの総称”(引用元・三省堂辞書)だ。私は話としてまとまっているものを物語というのだと考えている。

 物語について大雑把に捉えていたせいで、小説だけが装置である必要がなくなっていた。物語を伝える方法は漫画でも映画でも良い。漫画には漫画の、映画には映画のやり方がある。小説には小説のやり方がある。それを表現してこそ、物語を伝える装置としての意味を成すのだと思うようになった。

 小説のやり方とは、単に物語をなぞって文を書き起こす行為ではない。読者に対して物語をなぞりながら漂う雰囲気を伝えることが重要だ。飲茶さんのブログ(http://blog.yamcha.jp/article/374389974.html)で読んで、深く納得するとともにある疑問が浮かんだ。今まで雰囲気を察することもせずに小説を読んでいたため、物語を単に話としてまとまっているものとしてしか考えていなかったのでないか。つまり、物語には物語ごとの雰囲気があるということが分かったということだ。

 小説を読むというのは物語に潜む雰囲気を楽しむということなんだろう。

本気の在り処

 小学五年生の時、陸上大会で二位になった。思わず悔しくて泣いた。それ以来、本気を出して負けることが怖くなった。

 中学受験で私立に合格したが、結局は地元の公立へ入学した。私立へ行きたいと言ったのは私だったが、自分で決めた道で自分より勉強のできる人間に出くわした時、また悔しい思いするはずだと感じていた。それ以来、重大な決断はほとんど他人任せになった。

 とにかくやることなすこと、適当な態度を取って「私がやりたくてやったわけじゃない」と言う顔をする。そうやってプライドを守り続けてきた。

 やりたいことを作って、やるべきことを遠ざけたりもした。自分に言い訳をするのがうまくなるばかりで、本気を出そうと思ったことは一度たりともない。私は本気の出し方が分からなくなっていた。

 本気というのは熱意のバロメーターが一定値を越えた状態のことを言うのだと思う。熱意はモチベーションとかテンションとかそういう言葉に置き換えても問題ない。一定値は人によって違う。生活が破綻するほど熱意を持つ人から朝の支度を済ませることで十分に本気になれる人もいる。私が本気だと思うのは、負けたと感じた時に悔しいと思えることだ。

 だから、私の本気の在り処はいつも負けが教えてくれる。