あすからがんばる

明日のことは書けないブログ

自分のことばで書く

最近、詩の勉強をはじめました。

10年ほど前から小説を書いていましたが、詩には手を出してなかったのですね。小学生か中学生の頃、詩というのはどこか恥ずかしいものに思えたんですよ。たぶんドクロちゃんのせいですね。ポエマー気取りのうんぬんかんぬんって地の文、まだ覚えていますよおかゆ先生。

それはさておき、詩を勉強しようと思ったのは大学のゼミの先生に勧められたからです。絵画、映像、音楽、ゲームと小説に近いジャンルの作品をよく鑑賞しているのですが、詩についてはからっきしで、そのことを指摘されてしまいました。私も言われるまで詩という可能性を無意識的に除外していたようでハッとさせられましたね。

それで詩のインスタレーションでもやるか、という話になってまずは詩の勉強からはじめることにしたのですが、さあ大変です。

はじめに読んだのが、やなせたかし先生の『誰でも詩人になれる本』ですね。

あなたも詩人 だれでも詩人になれる本

あなたも詩人 だれでも詩人になれる本

 

この本で学んだことは「詩人になるためには詩の勉強をしないこと」です。ははあ、なるほど詩というのは奥深いものだなあ、と思ったのですが、なにも分からないのですからそれは奥深く感じるものです。海の底を眺めているようなもんです。

海の底に潜るほどの勉強をすべきなのでしょうが、まだまだひよっこの私は潜り方を知りません。せいぜい片手で掬える水ほどが限界です。そこで、大学で詩を教える先生の元を尋ねました。そこで釣り上げたのが、北園克衛さんの『カバンのなかの月夜』です。 

カバンのなかの月夜―北園克衛の造型詩

カバンのなかの月夜―北園克衛の造型詩

 

もはや、詩とはなんなのか。それが分からなくなってしまいました。今の私にとってひっくり返った便器みたいなもんですよ、これ。

他にも高橋昭八郎さんの『ペ/ージ論 』もあります。まだ最後まで読み切っていないのですが、これも似たようなメッセージを私に投げかけてきます。

「詩とはなにかを考えろ」ということですね。

インスタレーションをするにあたって、詩とインスタレーションの親和性を考えなければなりません。インスタレーションについては去年やったために感触を覚えているので、詩の方をじっくり勉強することにしました。しかし、こうやってメッセージを受け取ってしまうと、インスタレーションについても考えざるを得ません。

無論、大事なのは私の表現の部分とゼミの先生の好みの部分です。表現ばかりが先行しては余程の魅力がない限りは見向きされません。だから審査員の好みに合わせて制作をしていくのですが、こういうやり方はなんとなく芸術っぽくない感じしますね。人間製の作品は勝手に生まれるものではないので、生み出す側の維持費も必要になるのですよ。

 

詩にしろ、インスタレーションにしろ、それは人の生み出すものに変わりありません。生み出す前に人はイメージを持ちます。それがなんなのか理解してなくともイメージがあって、造形にしたり絵画にしたりします。その中で最も一般的に用いられるイメージの表現方法がことばですね。造形、絵画、映像のことを劣っていると言うつもりはないのですが、やはり私の中でことばというメディアは特出してイメージを伝えるのに向いていると思います。例えば、悪い夢を見たとします。断崖絶壁で黒くて大きな一つ目の怪物が裂けたような口を開けて自分を飲み込もうとしていた、という情景があるとしますよ。この時、これを絵画や映像で伝えたり、実際の断崖絶壁に夢の中で見たのと同じくらいのサイズのオブジェを建てることで伝えることだってことばを使わないメディアでもできます。ただ、ことばの良いところはここなんです。「断崖絶壁で黒くて大きな一つ目の怪物が裂けたような口を開けて自分を飲み込もうとしていた」という42字だけでイメージを伝えることができる、ということです。伝える速度としては最速ではないでしょうか。音楽よりも早いですよ。ただし、他のメディアに比べて正確性に欠きます。雑草だらけの断崖絶壁だったとか、空が暗雲立ちこめていたとか、自分はいつものパーカーを着ていたとかそんな情報を伝えるにはもう少し文量が必要になってきます。この情報量の少なさもことばの良いところです。イメージを伝えたい側が大事だと思っているところだけを言えば良いのですから、どんな表現方法よりも簡単でしょう? そして、とても主観的で、表現の部分が強く出ます。

だから詩なのでしょうね。詩はことばの持つ主観的な部分でつくる作品です。今の私はそう思っています。北園克衛さんや高橋昭八郎さんの詩は、果たしてことばなのでしょうか。プラスチックポエムや記号だけの詩がことばなのでしょうか。少なくとも、言葉ではないですね。日本語でも英語でもないです。言語ですらないかもしれません。だからこそ、表現方法としての活字がプラスチックポエムになったり記号だけの詩になったりするのだと思います。

なんとなく言いたいことが不透明になってきた気がします。そろそろ話の着地点を見つけなければならないのですが、それを見つけることができないでいます。インスタレーションについては、ことばというメディアの強みを活かして考えたいとは思いますが、そのことばについて実践的な生み出し方までは考えていません。少なくとも、他人のことばでインスタレーションをする気はないですね。なんとかして自分のことばを見つけたい。だけど、自分というのは他人なしで在ることはできないもので、勝手に人の影響を受けて変わっていきます。「自分は変わらない」と言ったところで、周りとの差を見て「自分は変わらない」と認識しているに過ぎませんから、変わらないという方を向くようにベクトルを常に変えながら生きていますよ。そんなコロコロ変わってばかりの私に自分のことばがあるのか分からないのですが、それを見つけて表現に結びつけていくのも大事な制作の一つなんですよね。

もの作ってる時は影響を受けたくないから篭りっきりになりがちです。これっておとなになったら変わるものなんですかね……?

万年MP不足の私たちは

お久しぶりです。

ここ一ヶ月ほどブログを更新していませんでした。そのことについて、今回は話したいと思っています。話しながら考えをまとめていくので読んでいると訳わからんってなるだろうけど気に入らないんだったらブラウザバッグでさようならしてください。

 

さて、ブログを更新してない理由から話しますね。ブログも更新できないほど忙しいというわけではありませんでした。先月から大学と家を行き来する毎日に教習所が加わったくらいで大した違いはないです。大事なのは、時間ではないのですね。

じゃあ何か。

MP的な何かなんだと思います。

基本、起きて活動している間はHPを消費するものです。私たちは勇者ではありませんから、フィールドを移動するだけで確実にHPが減ります。満腹度も下がりますが、それは置いておきましょう。

こうやってブログを書きながら、なんかおもしろいっぽいこと思い付いて書く作業だって立派にHPを削っていますよ。そりゃもう目から首、肩、腰と疲労度が溜まって、それが徐々にダメージを与えていくんですね。

そういう身体的な点数とは別のところにMP的な何かがあるわけです。要するに精神的な部分のことなんですが、それがストレスだとかやる気スイッチだとかそういうきっぱりとしたものとは言い切れません。なんとなく心が疲れた感じがしてくるのです。その疲れは運動後のようであり徹夜明けのようでもあります。

ブログを書くことは、私の中のMP的な何かを消費する行為なのですね。そして、ブログを書けなかった理由というのがここにあります。ええ、そうです。MP不足です。

だって考えてみてくださいよ。午前中は大学に行って友人と話をしたり、座学や制作をしたりします。午後になれば読書と制作と小遣い稼ぎと教習所通いがあります。いやこれ割と忙しいんじゃないか、と書きながら思いました。タスク多すぎ問題ですね。

それぞれのタスクを始める時は、そのタスクを持続するよりもMPを消費します。長く続けるには長くMPを消費し続ける必要があるので、日ごとにそのタスク以外のことでMPが底をつくような生活をしている人は一つのことを長く続けるのには向いてないんだと思います。まあ、うん、ここまでのことは誰かがブログで書いてるでしょうね。

物事を長続きさせる秘訣なんてのは知りません。そんなの人それぞれでありましょう。私の場合は、一日のタスク数が増えるとMPが底をつきやすいということです。いろいろなことを並行的にやってはいけません。どれも中途半端になるか、どれかできなくなります。一つに事に夢中になるのはできますよ。小説を書いている時なんてのは一種のトランス状態みたいなところあります。MPのほとんどを費やしているからですね。

タスクを絞って何かを続けることが果たして良いことなのかは人によるでしょうけど、私はやりたいことがあるのでタスクはできるだけ増やしたくないと思っています。まあ、その前に増やし過ぎたタスクを減らす必要がありますね。

そのために私がやったことでも挙げておきましょう。

1.睡眠時間と起床時間を一定に保つ

2.長いこと使っていたアカウントで名乗るのをやめる

3.一日に1時間は完全フリーな時間をつくる

この三つですね。これでだいたいの余計なタスクを減らせました。いや、正確に言えば、これらをすることで余計なタスクが浮き彫りになってきました。

睡眠時間を整えることで、夜時間にやっていたことを起床後にするようになります。そうすると9時くらいから大学もありますから、ダラダラ続けることができなくて、自然と限られた時間の中でできることは何かと考えるようになります。それまでは4時には寝ようと思いながら6時くらいになって寝るんだけど、8時半くらいに起きて吐きそうな気分のまま1限目を遅刻して昼ごろに爆睡して、午後からやる気出ない感じの毎日を送っていました。なんていうか、朝6時に起きてみてください。無敵感パネェっすよ。

二番目は、このブログにも書いているんですが、前のアカウントで名乗るのをやめたことですね。それまでTwitterにかなりの時間を奪われていました。フォロワーが増えてくると何をつぶやいてもふぁぼられて、100人くらいにふぁぼられてくるとなんとなく承認欲求が満たされた感じがしてそれで満足してその日は終わっちまいます。いや、なんで人がいろんな活動するかっていうと、根本的には満たされたいからですよ。承認欲求でも自己実現でもなんでも。人は満足したいから活動します。私はこの満足を得るためにネットを多用していたと思います。Twitter然り、ブログ然り、コミケ然りです。このアカウントでなきゃダメだ、みたいになってきて、いよいよリアルの自分の方を圧迫してきました。これではいけませんね。なのでそのアカウントで名乗るのをやめています。まあこれ、アカウントの部分をペルソナにしてもいいかもしれませんね。いくつもの顔を使い分けるのはそれだけで一つのタスクになっている、ということですよ。

最後に、時間の使い方ですね。今まで、フリーの時間なんてつくったことありませんでした。一日24時間のうち24時間を小説に充てて、小説を書く時間を削って寝食や学業などをするという考えを持っていました。普通は違うようですね。まあでも、私はいろいろなことを自分や何かに役立てようとか考えている一介の学生ですからね。普通の範疇と思いますよ。ただ、24時間を小説に充てるという生活、けっこう切羽詰まった感じで、時間にせっかちになるほどではないのですが、人生であと何本作品が作れるのかなどを考えて、精神的な摩耗が大きかったと思います。スケジュール帳に空きのない状態は一日の行動を複数のタスクに分割してしまうのです。スキマ時間というやつですね。チャレンジ精神はほどほどにしておくべきでしょう。

まあ、そんな感じで最低MP消費量を減らしました。それでもタスク数は多いです。減らしたところに新しく増やしたりしたのですからしょうがありません。特に小遣い稼ぎについてはタイミングが悪く、同人誌の編集作業やら小説の執筆作業と重なったりして面倒くさいことになっております。これからは一日にするPC作業タスクは2つまでにしようかとも思いますね。

ああ、あとこれも。私はよく周りから仕事できるっぽいとか思われていましたが、そう思われると余計な仕事を頼まれることがよく分かったので、冴えない感じを醸し出すようにしてます。やる気があっても出す必要がない場所では出さない方が身のためですね。本当に自分のやりたいことだけ、やる気出していきたい所存です。

言葉症候群

私は子供の頃、親や先生からよく「余計なことを言うな」と怒られていた。いつも無意味な自虐ばかりしていた子供だった。構って欲しかったんだろう。ただ、今はそんなメンヘラ特性はうまく隠せている。特に中学の部活動で何度も怒られたおかげで、独り言を言わないようになったからだ。その代わり、というのは早計かもしれないが、中学のことがあってからこまめに発散していた欲求が別のところへ向かっていた気がする。その一つが小説を書くことだったし、ネットのチャットでもあった。結論として私は構ってちゃんなのだ。

構ってちゃんの成れの果てがTwitterとブログに向かったのだから情けないことこの上ない。Twitterと共にコテハンも捨ててきたが、私の構われたい欲求というのは収まることがなかった。コテハン捨てたのは中学の保健で習った「昇華」というものが起きて、私は一層の執筆へ向かうのだと考えたからだ。しかし、そんなことはなくて、一日の大半を茫洋として過ごすようになってしまう。構われたいがために人に悪口ばかり言うにようになって、嫌われることも一つのステータスだとさえ考えていた。

思ったことをすぐに口に出すのは昔からで、知らないうちに何度も人を傷つけたんだと思う。余計なことは言うし、独り言ばかりだ。口は災いの元と言うが、本当にそれ。正直、必要な会話だけやって生きていけるメンタルが欲しい。じゃあ必要な会話ってなんだって話だけど、そんなの私に分かるわけがない。会話をしていると、会話にはTPOが重要で、その場その時その場合の会話が必要になってくることは分かる。

では、ブログは何を話せばいいのか?

おそらくこれは日記と同じ扱いのことをすれば良いのだと思う。人それぞれ、という答えを私は嫌っているが、ブログに書くことは日記なのだ。日記が他人と同じというのは不自然なことだから、私の私の日記を書いていくしかない。そこで浮上するのが、私の日記とはなにかという話だ。

何を目的にブログを書くのか。まずこのブログの設立理由だが、Twitterやブログで感じていた書かなきゃという気持ちをなくすためのリハビリだ。だから、少しずつ更新をゆるめて、やがては書かない人になりたいと思っている。私が記事を更新するのはどうしても発言したくなってしまったからだ。何と言っても、今読んでいる文章から察するに本当に主張したいことなんてなくて、ただただ言葉を羅列するだけで気持ちが良いと思えるからだ。

子供の頃、友達がいないわけではなかったが、家の門限が厳しくて遊び相手がいなかったので、いつも部屋にこもって人形遊びをしていた。その人形遊びのために人と遊ぶことを断ったことだってある。いつだって頭の中にシナリオがあって、そのシナリオを早く進ませないと次のシナリオに進めなくなるからだ。学年が上がる度、私の中の物語はめまぐるしい速度で進んでいく。物語は止まってくれない。仕方ないから筆を取って書くことにした。最初は絵付きの漫画とも絵本とも小説とも言えない落書きだったが、徐々に形式を取るようになって今に至る。言葉の羅列は私にとって逃げ道だったのだ。

独り言はその一端に過ぎず、余計なことや悪口は頭に浮かんだ言葉を単に口にしただけ。感情が湧き上がれば湧き上がるほどに頭の中は言葉で埋め尽くされて、大当たりをし続けるスロットみたいに口から言葉が吐き出される。怒った時はずっと喋り続けて、吐くものがなくなると途端に黙りだすタイプが私だ。ある程度、満足すれば別のことを考えているので、今こうしている間も満足度は上がり続けている。というかそろそろ満足してきた。

書いたらまずいこととかは書かないようにしているので言葉の間違いくらいは推敲している。文法的誤りに関してはフォローできる範囲内だけだ。本当は思い出すとイライラすることもあるのだが、そのイライラすることについては話したところで無意味なので放っておくことにする。

楽しい空間にいるのに一人だけ我に返る奴www

私です。

 

私は小説を書いております。職業作家などではないのですが、小説を書くことはライフワークだと思っています。小説に限らず、ゲームや漫画、音楽を作ることもありますが、要するに創作意欲の解消が人生で最も楽しいと思える瞬間なのです。

創作意欲は日々湧き上がります。しかしながら、完成する作品は年に1つか2つだけ。

なぜか?

一つの作品を執筆中にまた新しいネタが出てきてしまうのです。あれもこれもとなっていて、一つの作品を完成させるまでに未完成の作品が10作ほど出来てしまうこともしばしば。

私が飽き症なのもあります。でも一番は、書きたいネタがあるのに今の執筆で手一杯で書けない苦しみを味わうからです。島田紳助さんが自分は楽しい状況になるとすぐに「楽しい」が終わってしまうことがあるタイプだと言っていました。私もこれです。友人同士で集まっていて、みんなで楽しい時間の真っ只中にいるはずなのに一人だけ我に返ってしまいます。

意外とこういう人って多いのではないでしょうか?

 

このタイプの人の特徴の一つに、熱中度が周りより高いというのがあると思います。猪突猛進とは言いませんが、それくらいに周りとの温度差があったりしませんか。温度差に気付くくらいの客観視をできる、ということですね。

そういう人がずっと同じものを続けていくにはどうしたら良いのでしょうか。

……どうしたら良いのでしょうね。

私は解決する方法が見つからないので、小説をライフワークに据えて生きてきました。たぶん小説を書くことは天職ではないと思います。そうは言ってもライフワークだと自分を騙し騙し続けていくしかないのでしょうね。

これが騙り部という奴です。

修羅場中の同人作家みたいな生涯を送ってきました

毎日忙しいのが辛すぎてちょっと病んだ頃が私にもありました。

ああ、あの頃に戻りたい…

一日にあれしよう、これしようと決めて、それが何ヶ月も先まで決まっているのが大人の時間割なんですよ。一日が40時間なら終わるような作業。デスマーチ

子供の頃も一日にあれしよう、これしようと決めるけど、さすがに数ヶ月先のことは分からなかったし、朝に決めたことだってちゃんとできたのは少なかったです。自由に遊んでいられた子供の時間割に戻ってほしい…

子供の時間割。略して、こじか割です。社会にこじか割を提案したい。

というのは冗談で、時間の使い方について気付いたことがあるので書きます。

大人になると、子供の頃は良かったと思うんですよね。

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この現象は時間に対する大人の価値観と子供の価値観が異なることにより発生するズレから起きるのだと思います。

時間に対する大人の価値観とは、何をするにも時間を定めて行動することにあります。限られた時間で何を得ることができるのか取捨選択しているのですね。できてない人の方が多いと思っていたのですが、普通はするらしいです。合宿に行ったみんなが言ってました。

逆に、子供の価値観とは、すべての時間が自由に行動できることです。限られた時間で何をするかという概念はありますが、それを実行するだけの想像力はまだ養われていない頃ですね。小学生低学年頃の子供を観察していると、おもちゃで遊びだしたと思えばカードゲームを散らかしたり、それでもないとDSを開いて、文句言いながらラジコンで遊んだりしていました。何をしたら良いかを頭の中ではなく、一度やってみてあれでもないこれでもないと体と感覚で覚えていっているのでしょう。

いつでしたでしょうか。明日が今日になって、今日が昨日になった瞬間を知ったのは。きっとあの頃から私たちの時間感覚は24時間に縛られ始めるのです。この瞬間、その24時間を長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれだと思いますが、少なくともその24時間がリミットであることが感覚の中に埋め込まれます。時間に対する価値観を抱いた時、それは時間という概念をよく理解できた時でもあるでしょう。

 

さて、私の話です。

中学生の頃までの私は人と会ったり、映画を観たり、ブログにアウトプットしたりする時間をすべて「無駄」だと考えていました。では、どうして無駄だと考えるのか。それは、私のほとんどの行動の原理が創作のためだからです。大学選びも住む場所も付き合う人までも創作のためです。いかにネタにできるかを第一に考えていました。というか、考えていなくても次第と創作が優先順位に回ってくるのですね。やることないから小説書くか、絵描くか、映画撮るか、みたいな。そうやって題名のないラクガキが増えていって、ある時ハッとして題名のある作品を作ろうとしていたのが高校生の頃から今の私です。

そうすることで、余計に「無駄」という考えは強くなって、何をするにも2年で中級から上級になることを目的にしていました。手に入れては置いていくことを何度も繰り返しました。それはすべて作品のため。一日の時間の使い方は創作活動に24時間で、睡眠や食事なども邪魔なくらい。

それは良くないとは言いませんが、あんまり人らしくないと思いました。芸術家や作家、一部のプロと呼ばれる人たちだけがこの時間割で許されているのでしょう。責任が重くのしかかりますが、かなり自由に時間を過ごせます。子供の場合は、将来を掛けていますが、同じく自由な時間を過ごせます。何かしら極めた先はある程度の自由が待っていて、子供のようにもなれるけど、代わりに責任というおもりが付いている状態なのですね。

最初から自由を求めて、運良く自由を手に入れてもそれは子供の頃の自由とは違う自由です。死ぬまで自由を手に入れられない人も多いでしょうが、私は今がけっこう自由になれているので、今のうちに自由を堪能しておこうと思っています。

 

ところでビュッフェレストランの「まいにちごはん」に行ってきました。

食べたいものを好きなだけ食べる、これが自由なんですよ。

才能ないからやめるのやめたい

文章系専門学校で学んだこと

この記事を読んで少し思うことがあったので書いてみます。

結論から言えば、「才能ないからやめる」っていう人、本当にそれ、才能ないからやめるの?ってこと。

私は「才能ない」という答えを否定はしません。ですが、その答えをする前に、違う答えの可能性を推考してみるべきではないでしょうか。

有吉とマツコの番組に投稿したら「そんなの当人の勝手でしょぉ?」って返されちゃいそうです。まあ、よっぽどのことがない限り、これからやめていく人を引き止めても自分にメリットなんてありませんもんね。

それでも考えてしまったのは、増田の事情とよく似た友人がいたから。彼は高校時代の友人で、卒業後はシナリオライターの専門学校に進みました。「なんで専門学校? せっかくこの高校入れたんだから最低でも大学っしょ?」みたいな空気がある中、そのような決断をしたのは、部活動でゲーム作りの楽しさを初体験させてしまったからかもしれません。みんなでゲームを作るのはとても充実していて楽しいものだと映っていたことでしょう。ただ、その友人を含めて他の部員たちはゲームに使えそうなネタを口にするだけで、現物の制作をしていたのは私一人です。それでも楽しければ私は構わないと思っていたのですが、まさか作ったこともない人間がいきなり専門学校だなんて、思いもよりませんでした。

こんなことになるならゲームを作ろうだなんて言い出すんじゃなかった……。

なぜ後悔するのか。彼は専門学校を1年でやめて、「自分には才能がなかった」と言って今は家族の助けを借りて資格を取る勉強をしています。1年という月日というのは、自分に才能がないことを知るために使うにはあまりに高価すぎる勉強代だと思いました。他人のことなんて言ってる余裕は私にもないのですが、実はこのことは私にも言えることなので重要なことだと思ったのですね。

私は小学生の頃から才能を否定して生きてきました。

私の否定してきた才能とは何でしょうか。99%の努力ができて、1%のひらめきを持っていることです。あるいは、努力と環境と初期ステータスの合計値が一定のラインを超えていることです。

つまり、才能とは自分じゃどうにもならないことでした。

過去に何度か「才能ないからやめる」って思ってて、そして今でも「本気でやったら才能がないことが明らかになるから本気だすのやめよう」って思っています。究極にチキンなのでありました。

才能があると思ってるから、才能を否定できるんですね。

こうして本気を小出しにする馬鹿馬鹿しい器用貧乏が生まれました。だいたいのことをそれなりにできたのもよくありません。周りの人間のレベルに合わせてそれなりにできるようになるための本気をちょっと出すだけ。そうやってうまいこと楽できる環境を見つけて、少しでも環境が変われば違う場所で同じように巣食うのが私でした。これもうやめます。

いつからか「才能ないからやめる」と言い出して、いつの間にか「才能ないからやらない」と言っている自分になりつつあって怖いのです。

才能ないからやめる前に、才能以外の理由を探しました。時間的余裕がないだとか、自分の熱意を割くほどのことではないだとか、理由は様々です。本当にその理由で合っているかは分かりません。実際は、やめたくなったから、やめたのかもしれません。

こうやってやめて行く中で一つ気付いたことがあります。やめたくなったらやめられる領域でやっていたこととやめられない領域まで食い込んでいたことですね。たぶん、前者を趣味と言います。後者は人付き合いとかそういう切りたくない縁がたくさんあるものでした。ソーシャルメディア怖いです。

今の私は立ち止まっている状態なのかもしれませんね。同じ場所に留まるには歩き続けなければいけないのでしょうが、その場所を眺めるには先に行くか立ち止まるしかないんですよ。結局、同じ場所にはいられません。

さて、明日はどちら。

隣のあいつはずるい

私は何もしないことで後悔するより、何かをして後悔した方が、良いと思っている。しかし、それは結局、独り善がりの考えでしかないんだろうな。

例えば、私が友人と一緒に同人誌作りをしようと誘ったとする。友人は私が彼にとって「友人」だから断りづらくて、誘いに乗ってきた。私はの熱意が50くらいだとすれば、彼の熱意は15くらいだと仮定する。数カ月後、彼は何かと理由をつけて原稿をやってこなかった。これに対して、私は「できないのなら最初からできないと言って欲しかった」と返す。そして、これがきっかけで私と彼の仲は悪くなっていった……。

こういう書き方をすると私の言い方が問題だったと分かるだろう。しかし、こうやって本音で私は接することが大切だと考えている。だから、相手にも本音で言って欲しいと願ってしまう。ほとんどの人が本音には本音でしか返せないと思う。人と人はどんどんぶつかって、自分と相手の線引きをしっかり測った方が、もっと気楽に話していけると思って人と接してきた。

でも、こういうコミュニケーションはお互い傷ついてばかりで心に良くないね。このやり方は人と末永く付き合っていくやり方じゃない。「縁」を重んじていないから、冷たい人だって見られている。あるいは、熱すぎると思われている。「この人とは友人」「この人とは仲間」「この人とは知り合い」みたいに人を区別して、今後の接し方を決めていけるから効率的で無駄がないと考えていた。もちろん、私は何でも効率で考えているわけではないし、メリット・デメリットで値踏みしているわけでもない。自分の時間を奪われたくない、この一点に尽きる。

寿命が80歳だとすれば、私はあと60年足らずで死ぬ。1年間に書ける作品は3つくらいだ。つまり180作品くらい。だいたい1年で同じくらいの冊数の本を読む。ああ、私の作品は1年で読みきれちゃうのか……と寂しく感じた。こうしている合間にも、もっと私は作品を書くべきだと思う。これらが、まあ、高校生くらいまで考えていたことだ。

こういう考えを私は持っていたから、短い人生の中でどれだけ集中的に物事を身に付けることができるか、ということを大事にしていた。熱意というのを切り替えて、勉強する時は勉強を頑張って、遊ぶ時は全力で遊べばいい。そうすることが充実していて、とても楽しいのだと信仰していた。もちろん、結果が自分の望む物でなくてもそれはそれで結果が出ているのだから良いことだ。勉強を頑張ったけど国立大に入れなくて、それで悔しかったなんてのはむしろ良い結果。「自分はもっと頑張れた」みたいなことを呟いて、うだうだしてるのは悪い結果。何もしないでする後悔ほど地団駄を踏みたくなるものはない。昔の自分にグーでパンチしたくなる。

だけど、グーでパンチしていたのは昔の自分じゃなくて、近くにいた友人だった。「何もしないでいるより、何かをしてから後悔する方がいいんだぞ!」って友人に言うのは、違うんだよ。もうそれは友人じゃなくてサンドバッグみたいなもので、たぶん友人からすれば「お前の勝手を俺に押し付けるな」って思われていそう。というか、そういうことを言われたら私もそう思うだろうな。

だから私は周りにばかり敵を作っていたね。遠くから見れば、すごい人って思われているかもしれない。でも、近くにいたらただの暑苦しい人。そういうのを分かっている人からすれば、近寄らないようにしようってなるだろう。サークルクラッシャーとかメンヘラとか呼ばれるタイプの人間なのかもしれない。私はそういう人になりたくないので、私の友人を見習って直し始めている。

隣の芝生は青く見えるだけなのかもしれないが、そいつは私からすればとてもずるく映る。だって、私がこうして人との線引きをしているのに、それをしようとしないからだ。正直言えば、そういう線引きするやり方には私も疑問を抱いていた。「あなたは私の友人だよね?」ってわざわざ聞いて回るようで野暮ったらしい。だけど、あと数十年で死ぬ命、線引きしないやり方では時間を無駄にすると言う念が勝った。私は自分で針山に突っ込む真似をして、非常に生きづらい道を選んだに違いない。その分、針山からたくさんのものを見渡すことが出来た、たぶん。だから、針山に来なかった彼はずるい。楽な生き方をしていると思うけど、別にそれは悪いことじゃない。押し付けがましいことはしないことにしているから、私は「隣のあいつはずるい」としか言えない。

自分は相手より上にいるんだと思わないとやっていけない。針山の上から見下ろして私はこうやって騒いでいる。ふもとの人たちは、私を見て滑稽だと笑い飛ばす。それでも針山の上にいたいか、やっぱり痛いから降りようか。そういう悩みが私にはある。

ずるいあいつは笑い飛ばさない。眺めて手を降るくらいの交流をしてくれる。それを私はすごいことだと思う。見習うべきは、きっとそういう余裕なんだろう。余裕の出し方は簡単だ。針山の上から降りること。ただそれだけ。余裕のある場所に立ってやっと、自分の中に余裕ができて、自然と誰かに余裕を割けるはずだ。

私のようにベコベコになりながら突っ走ろうとする奴は少ない。私よりもボコボコの奴は学校にいた。燃料切れを繰り返して、燃料に似た違うものを詰め込んで煙をたなびかせている。スクラップ寸前になる前にそろそろ乗り換えたら良い。乗り換え先は隣のあいつの場所で良い。そっちの芝から、針の芝を見てやろう。

そんな気持ちがブログ名に現れているんだろうか。自分のことはちょっとよく分からないけど、こうやって文字打っていれば何か見えてくるんじゃないか。あるいは誰かが口出してくるんじゃないか。なんかそういうゆるいスタンスであすからがんばる。