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あすからがんばる

明日のことは書けないブログ

隣のあいつはずるい

私は何もしないことで後悔するより、何かをして後悔した方が、良いと思っている。しかし、それは結局、独り善がりの考えでしかないんだろうな。

例えば、私が友人と一緒に同人誌作りをしようと誘ったとする。友人は私が彼にとって「友人」だから断りづらくて、誘いに乗ってきた。私はの熱意が50くらいだとすれば、彼の熱意は15くらいだと仮定する。数カ月後、彼は何かと理由をつけて原稿をやってこなかった。これに対して、私は「できないのなら最初からできないと言って欲しかった」と返す。そして、これがきっかけで私と彼の仲は悪くなっていった……。

こういう書き方をすると私の言い方が問題だったと分かるだろう。しかし、こうやって本音で私は接することが大切だと考えている。だから、相手にも本音で言って欲しいと願ってしまう。ほとんどの人が本音には本音でしか返せないと思う。人と人はどんどんぶつかって、自分と相手の線引きをしっかり測った方が、もっと気楽に話していけると思って人と接してきた。

でも、こういうコミュニケーションはお互い傷ついてばかりで心に良くないね。このやり方は人と末永く付き合っていくやり方じゃない。「縁」を重んじていないから、冷たい人だって見られている。あるいは、熱すぎると思われている。「この人とは友人」「この人とは仲間」「この人とは知り合い」みたいに人を区別して、今後の接し方を決めていけるから効率的で無駄がないと考えていた。もちろん、私は何でも効率で考えているわけではないし、メリット・デメリットで値踏みしているわけでもない。自分の時間を奪われたくない、この一点に尽きる。

寿命が80歳だとすれば、私はあと60年足らずで死ぬ。1年間に書ける作品は3つくらいだ。つまり180作品くらい。だいたい1年で同じくらいの冊数の本を読む。ああ、私の作品は1年で読みきれちゃうのか……と寂しく感じた。こうしている合間にも、もっと私は作品を書くべきだと思う。これらが、まあ、高校生くらいまで考えていたことだ。

こういう考えを私は持っていたから、短い人生の中でどれだけ集中的に物事を身に付けることができるか、ということを大事にしていた。熱意というのを切り替えて、勉強する時は勉強を頑張って、遊ぶ時は全力で遊べばいい。そうすることが充実していて、とても楽しいのだと信仰していた。もちろん、結果が自分の望む物でなくてもそれはそれで結果が出ているのだから良いことだ。勉強を頑張ったけど国立大に入れなくて、それで悔しかったなんてのはむしろ良い結果。「自分はもっと頑張れた」みたいなことを呟いて、うだうだしてるのは悪い結果。何もしないでする後悔ほど地団駄を踏みたくなるものはない。昔の自分にグーでパンチしたくなる。

だけど、グーでパンチしていたのは昔の自分じゃなくて、近くにいた友人だった。「何もしないでいるより、何かをしてから後悔する方がいいんだぞ!」って友人に言うのは、違うんだよ。もうそれは友人じゃなくてサンドバッグみたいなもので、たぶん友人からすれば「お前の勝手を俺に押し付けるな」って思われていそう。というか、そういうことを言われたら私もそう思うだろうな。

だから私は周りにばかり敵を作っていたね。遠くから見れば、すごい人って思われているかもしれない。でも、近くにいたらただの暑苦しい人。そういうのを分かっている人からすれば、近寄らないようにしようってなるだろう。サークルクラッシャーとかメンヘラとか呼ばれるタイプの人間なのかもしれない。私はそういう人になりたくないので、私の友人を見習って直し始めている。

隣の芝生は青く見えるだけなのかもしれないが、そいつは私からすればとてもずるく映る。だって、私がこうして人との線引きをしているのに、それをしようとしないからだ。正直言えば、そういう線引きするやり方には私も疑問を抱いていた。「あなたは私の友人だよね?」ってわざわざ聞いて回るようで野暮ったらしい。だけど、あと数十年で死ぬ命、線引きしないやり方では時間を無駄にすると言う念が勝った。私は自分で針山に突っ込む真似をして、非常に生きづらい道を選んだに違いない。その分、針山からたくさんのものを見渡すことが出来た、たぶん。だから、針山に来なかった彼はずるい。楽な生き方をしていると思うけど、別にそれは悪いことじゃない。押し付けがましいことはしないことにしているから、私は「隣のあいつはずるい」としか言えない。

自分は相手より上にいるんだと思わないとやっていけない。針山の上から見下ろして私はこうやって騒いでいる。ふもとの人たちは、私を見て滑稽だと笑い飛ばす。それでも針山の上にいたいか、やっぱり痛いから降りようか。そういう悩みが私にはある。

ずるいあいつは笑い飛ばさない。眺めて手を降るくらいの交流をしてくれる。それを私はすごいことだと思う。見習うべきは、きっとそういう余裕なんだろう。余裕の出し方は簡単だ。針山の上から降りること。ただそれだけ。余裕のある場所に立ってやっと、自分の中に余裕ができて、自然と誰かに余裕を割けるはずだ。

私のようにベコベコになりながら突っ走ろうとする奴は少ない。私よりもボコボコの奴は学校にいた。燃料切れを繰り返して、燃料に似た違うものを詰め込んで煙をたなびかせている。スクラップ寸前になる前にそろそろ乗り換えたら良い。乗り換え先は隣のあいつの場所で良い。そっちの芝から、針の芝を見てやろう。

そんな気持ちがブログ名に現れているんだろうか。自分のことはちょっとよく分からないけど、こうやって文字打っていれば何か見えてくるんじゃないか。あるいは誰かが口出してくるんじゃないか。なんかそういうゆるいスタンスであすからがんばる。