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あすからがんばる

明日のことは書けないブログ

自分のことばで書く

日記

最近、詩の勉強をはじめました。

10年ほど前から小説を書いていましたが、詩には手を出してなかったのですね。小学生か中学生の頃、詩というのはどこか恥ずかしいものに思えたんですよ。たぶんドクロちゃんのせいですね。ポエマー気取りのうんぬんかんぬんって地の文、まだ覚えていますよおかゆ先生。

それはさておき、詩を勉強しようと思ったのは大学のゼミの先生に勧められたからです。絵画、映像、音楽、ゲームと小説に近いジャンルの作品をよく鑑賞しているのですが、詩についてはからっきしで、そのことを指摘されてしまいました。私も言われるまで詩という可能性を無意識的に除外していたようでハッとさせられましたね。

それで詩のインスタレーションでもやるか、という話になってまずは詩の勉強からはじめることにしたのですが、さあ大変です。

はじめに読んだのが、やなせたかし先生の『誰でも詩人になれる本』ですね。

あなたも詩人 だれでも詩人になれる本

あなたも詩人 だれでも詩人になれる本

 

この本で学んだことは「詩人になるためには詩の勉強をしないこと」です。ははあ、なるほど詩というのは奥深いものだなあ、と思ったのですが、なにも分からないのですからそれは奥深く感じるものです。海の底を眺めているようなもんです。

海の底に潜るほどの勉強をすべきなのでしょうが、まだまだひよっこの私は潜り方を知りません。せいぜい片手で掬える水ほどが限界です。そこで、大学で詩を教える先生の元を尋ねました。そこで釣り上げたのが、北園克衛さんの『カバンのなかの月夜』です。 

カバンのなかの月夜―北園克衛の造型詩

カバンのなかの月夜―北園克衛の造型詩

 

もはや、詩とはなんなのか。それが分からなくなってしまいました。今の私にとってひっくり返った便器みたいなもんですよ、これ。

他にも高橋昭八郎さんの『ペ/ージ論 』もあります。まだ最後まで読み切っていないのですが、これも似たようなメッセージを私に投げかけてきます。

「詩とはなにかを考えろ」ということですね。

インスタレーションをするにあたって、詩とインスタレーションの親和性を考えなければなりません。インスタレーションについては去年やったために感触を覚えているので、詩の方をじっくり勉強することにしました。しかし、こうやってメッセージを受け取ってしまうと、インスタレーションについても考えざるを得ません。

無論、大事なのは私の表現の部分とゼミの先生の好みの部分です。表現ばかりが先行しては余程の魅力がない限りは見向きされません。だから審査員の好みに合わせて制作をしていくのですが、こういうやり方はなんとなく芸術っぽくない感じしますね。人間製の作品は勝手に生まれるものではないので、生み出す側の維持費も必要になるのですよ。

 

詩にしろ、インスタレーションにしろ、それは人の生み出すものに変わりありません。生み出す前に人はイメージを持ちます。それがなんなのか理解してなくともイメージがあって、造形にしたり絵画にしたりします。その中で最も一般的に用いられるイメージの表現方法がことばですね。造形、絵画、映像のことを劣っていると言うつもりはないのですが、やはり私の中でことばというメディアは特出してイメージを伝えるのに向いていると思います。例えば、悪い夢を見たとします。断崖絶壁で黒くて大きな一つ目の怪物が裂けたような口を開けて自分を飲み込もうとしていた、という情景があるとしますよ。この時、これを絵画や映像で伝えたり、実際の断崖絶壁に夢の中で見たのと同じくらいのサイズのオブジェを建てることで伝えることだってことばを使わないメディアでもできます。ただ、ことばの良いところはここなんです。「断崖絶壁で黒くて大きな一つ目の怪物が裂けたような口を開けて自分を飲み込もうとしていた」という42字だけでイメージを伝えることができる、ということです。伝える速度としては最速ではないでしょうか。音楽よりも早いですよ。ただし、他のメディアに比べて正確性に欠きます。雑草だらけの断崖絶壁だったとか、空が暗雲立ちこめていたとか、自分はいつものパーカーを着ていたとかそんな情報を伝えるにはもう少し文量が必要になってきます。この情報量の少なさもことばの良いところです。イメージを伝えたい側が大事だと思っているところだけを言えば良いのですから、どんな表現方法よりも簡単でしょう? そして、とても主観的で、表現の部分が強く出ます。

だから詩なのでしょうね。詩はことばの持つ主観的な部分でつくる作品です。今の私はそう思っています。北園克衛さんや高橋昭八郎さんの詩は、果たしてことばなのでしょうか。プラスチックポエムや記号だけの詩がことばなのでしょうか。少なくとも、言葉ではないですね。日本語でも英語でもないです。言語ですらないかもしれません。だからこそ、表現方法としての活字がプラスチックポエムになったり記号だけの詩になったりするのだと思います。

なんとなく言いたいことが不透明になってきた気がします。そろそろ話の着地点を見つけなければならないのですが、それを見つけることができないでいます。インスタレーションについては、ことばというメディアの強みを活かして考えたいとは思いますが、そのことばについて実践的な生み出し方までは考えていません。少なくとも、他人のことばでインスタレーションをする気はないですね。なんとかして自分のことばを見つけたい。だけど、自分というのは他人なしで在ることはできないもので、勝手に人の影響を受けて変わっていきます。「自分は変わらない」と言ったところで、周りとの差を見て「自分は変わらない」と認識しているに過ぎませんから、変わらないという方を向くようにベクトルを常に変えながら生きていますよ。そんなコロコロ変わってばかりの私に自分のことばがあるのか分からないのですが、それを見つけて表現に結びつけていくのも大事な制作の一つなんですよね。

もの作ってる時は影響を受けたくないから篭りっきりになりがちです。これっておとなになったら変わるものなんですかね……?